ああ、これは熱だとアキは思った。
 夕方になって急に怠くなり、身体がガタガタと震え始めた。いくら着込んでも寒気が取れず、鍛冶を続けるうちに今度は熱を帯びている感覚に襲われ、次第に手からは力が抜けていき、ハンマーを握るのも億劫になってしまった。
 おそらく風邪だろうと自分の中にいるカヤナが言う。アキは頷いて、このままでは仕事にならないからと看板を仕舞いに行った。今日は風の強い日で、店先にゴミが散らかっていたため軽くほうきで掃いていると、自分の名を呼ぶ声がしてアキは振り返った。

「こんばんは。今日はお店を閉めるのが早いんだね」

 近づいてきたのは、ギルド帰りらしいハヤノだった。彼の自宅とギルドの間にアキの店があり、アキが看板を仕舞うのは大抵ハヤノが店の前の街路を通るより後なので、疑問に思って声をかけたらしい。

「あ、はい。ちょっと調子が悪くて……」

 口に出した言葉が掠れてしまったため、しまったと思った。案の定、怪訝そうに首をかしげ、ハヤノが顔をじっと見てくる。

「アキさん? 具合、悪いの?」
「あ、いえ、大したことはないんです。鍛冶を続けてやっていたので、疲れが出たみたいで」
「ちょっといい?」

 アキの言葉を遮り、ハヤノが素早く額に片手を当ててきた。一瞬の出来事に身体を硬直させ、ハヤノを見上げる。

「ハ、ハヤノさん」
「……アキさん?」

 眉間にしわを寄せ、手を離しながらハヤノは怒っているような顔つきで問うた。

「すごい熱だよね?」
「い、いえ、まだ計ってないし、大丈夫ですよ。少し休めば良くなります」
「薬はあるの?」

 受け答えになっていない。いつにない真剣な面持ちで聞かれ、圧倒されて素直に答えてしまった。

「はい。解熱剤はないけど、風邪薬なら……」

 このまま外にいるとハヤノに余計に咎められそうなので、きびすを返して店の中に戻ろうとすると、ぐらんと強いめまいに襲われて足元がふらついた。途端にハヤノが後ろから身体を支えてくれる。華奢だが大きな手で両肩を掴まれ、アキの身体は熱くなった。

「す、すみませ……」
「今はカヤナさんは外に出られない時期だよね……他に誰もいないなら、僕がアキさんの看病をするよ」

 いきなりの提案に、アキはぎょっとした。先ほどの額に当てられた手といい、肩を支える両手といい、恥ずかしさで頬が赤くなっているに決まっている。ハヤノに迷惑などかけられないと彼に振り返り、赤い顔のまま首をぶんぶんと横に振った。

「いいです! 風邪が遷っちゃったらどうするんですか」
「でも、高熱を出してるアキさんを放っておけるわけないでしょう?」

 真剣な眼差しでそう言われ、言い返そうとした唇が中途半端に開いたまま止まる。ハヤノも仕事をしている身だ、明日の業務に支障などが出たら申し訳がないし、遠慮したかったが、正直今の気怠い身体で家のことなどできそうになかった。
 ふらついているアキの肩を支え、ハヤノが腰を屈めて覗き込んできた。

「アキさん? 大丈夫? 歩ける?」
「は、い。少し、ぐらぐらしただけで」
「大変だ。ちょっと失礼。体重を僕に預けてくれる?」

 ハヤノが背中と膝の裏を支えようと手を差しのべてきたので、アキはハッとして身を引いた。

「い、いいです! 大丈夫です」

 店の前でお姫様抱っこなどされてはたまったものではない。誰かに見られてしまう可能性もあるし、彼にこれ以上触れられるなど恥ずかしさでどうにかなってしまう。それに、自分は決して体重が軽い方ではない。ハヤノのような華奢な男性だと潰しかねない。
 行き場を失った両腕を引いたハヤノは、困惑気味にアキに尋ねた。

「じゃあ、僕の肩に掴まって」
「い、いい、いいです……」

 頭がぼんやりしているのが恥ずかしさのせいなのか熱のせいなのかは分からないが、目の前が暗くなり、背筋が冷たくなった。吐く息が熱く、自分がそこに立っているという感覚さえ疑わしくなってくる。
 どうしようかなと考えていると、自分の中のカヤナが勝手にアキの口を借りた。

「ハヤノ。この調子だとアキは二階には上れん。お前が抱えて上れ」

 自分の口からとんでもない言葉が出てきて、ぎょっとする。だが、カヤナの言っていることは事実だろう。本当は今すぐにでも座り込んでしまいたいくらいなのだ。
 ハヤノは、やっぱり、と呆れ混じりの声を出すと、アキの身体を今度こそ両腕に抱えた。抵抗は試みたものの、手に力が入らず、結局はハヤノの服を弱々しく掴んただけだった。

「ハ、ハヤノさん」
「身体が熱いよ」

 やれやれと言わんばかりにかぶりを振り、アキにドアを開けさせて中に入る。ドアに掛かっているベルの音がも誰もいない部屋の中に響いた。一階にある鍛冶場にはまだ火が灯っていて、薄暗い室内を炎のオレンジ色が照らしている。
 ひとまず二階に行くというハヤノの言葉にしぶしぶ頷くと、ハヤノはアキを抱えたまま階段を昇っていった。踏み外すと惨事になるので、その足取りは非常に慎重だった。しかも二階にはまだ明かりが灯っておらず、上に登るにつれて足元が暗くなる。ハヤノの顔が徐々に真剣になってきて、アキは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 なんとか無事に二階に登り、アキのベッドの前まで行くと、ハヤノはそこにゆっくりとアキを横たえた。身体が寝そべったことで信じられないくらい楽になり、本当に風邪を引いているのだとようやく自覚する。

「ありがとうございます」
「ううん。あ、着替える? 僕、下に降りて片づけられるところを片づけておくよ」
「あ、そ、そんな、大丈夫です、楽になったら自分でやりますし」
「好意に甘えておけよ、アキ」

 勝手に口が喋る。カヤナ!と怒るが、その口調は弱々しかった。そういえばどうしてカヤナは普段通り元気そうに喋っているのだろうか? 熱を出した同じ身体を共有しているというのに。

「ハヤノ、やはり汗をかいているから着替えたい。その間に下に行って、置きっぱなしのほうきや看板を仕舞ってきてくれないか」
「分かった」
「ちょっと、カヤナ!」

 いい加減にしてと続けて言いたかったが、自分の声に頭がぐらぐらしてそれもままならない。ほれみろとカヤナに言われ、口を噤むしかなかった。
 そうこうしているうちにハヤノは二階の各所のガスランプをつけて階段を下り、部屋にはアキとカヤナだけが取り残された。アキはしぶしぶ怠い身体を起こし、タンスの上に畳んでおいた洗濯物から寝間着を引っ張り出し、やっとの思いで着替えを済ませた。コロが小さなクッションの上で丸くなって眠っているのを確認してから、再びベッドの上に力無く倒れ込んだ。





 ふと目が覚める。木目の天井が見え、部屋は薄明かりに照らされていた。背中にある布の感じはベッドだろう。もしかして明かりを消さないまま寝てしまったろうかと目だけで周囲を窺うと、いつもは自分一人しかいない部屋に別の人間の影が見えてドキリとした。キッチンの前に誰かいる。
 身を起こしかけたが、その後ろ姿で正体に気付き、そういえばそうだった、自分は熱を出したのだと再び頭を枕につけた。身動きする気配を感じたらしい彼が、ん?と振り返る。

「アキさん? 起きた?」

 そそくさと寄ってこられて、アキは恥ずかしくなってもそもそと掛け布団を口元まで被った。手にスプーンを持ったハヤノが上から覗き込んでくる。

「大丈夫?」
「ん……はい」

 声が掠れている。寝起きだからかもしれないが、やはり風邪の影響があるのだ。喉が痛い。
 ハヤノは慌てた様子でキッチンに行くと、すぐにトレイを持って戻ってきた。

「ごめん、アキさん。勝手にキッチンを使わせてもらったよ」
「あ、いえ、かまいません」
「水と、あと、ちょっとしたお粥を作ってみたんだけど……」

 ベッドの側に置かれた木の椅子に腰掛け、トレイを膝の上に置いている。アキがトレイの上に載っているものを確認すると、そこには水差しとコップ、白い器に入った湯気の立つ粥があった。
 アキが粥の器を見つめているのに気付き、ハヤノは照れたように身じろぎした。

「ご、ごめんね、あまり栄養のあるものを作れなくて……あ、無理して食べる必要はないし、食べられる時に食べて欲しいんだけど。アキさん、夕飯まだだったでしょう?」
「……ハヤノさん」

 ますます彼に迷惑をかけていることで居たたまれなくなり、アキは沈痛な面持ちで頭を下げた。

「本当にごめんなさい。ハヤノさんも明日お仕事でしょう?」
「明日は午後からだし、大丈夫だよ」

 にこりと微笑む。裏のない優しいその笑顔に、アキは切なさを覚えた。この人はきっと自分の優しさのせいで苦労したり傷ついたことが多いのだろう。それでも、この優しさが無ければ彼はハヤノではないのだ。

「……お粥、食べたいな」

 アキがぼそりと呟くと、ハヤノはパッと顔を明るくした。しかしすぐに困惑した面持ちになり、大丈夫かなと首をかしげる。
 アキも頑張って微笑み、のろのろと身体を起こした。枕を腰に当てて、どうにか楽に座れる体勢を作る。水入りのコップを渡され、喉を潤すために中身を口にした。

「……ん。少し喉が渇いていたから、助かりました」

 言いたいことは言えるが、声がガラガラだ。

「すみません、こんな声で」
「ううん。つらそうだね……あ、お粥、もう少し時間を置いた方がいいかもしれない。まだ作ったばかりで熱いからさ」

 トレイをベッドのサイドボードに起くと、ハヤノはじっとアキを見つめてきた。何かしらと首を傾ける。すると彼は薄く苦笑し、実はね、と後頭部に手をやった。

「今日、アキさんの所に寄ろうと思ってたんだ」
「え……そうなんですか?」
「うん。一度自宅に戻って、差し入れでも持ってお邪魔しようかなって」
「差し入れ? そんな……悪いです」
「前、アキさん、僕にごちそうしてくれたでしょう?」

 鶏肉のトマト煮込み!とハヤノは嬉しそうに言う。以前アキが夕飯を一緒にどうかと誘った時のことを覚えてくれているらしい。あの時はなかなか上手に煮込み料理を作ることができ、ハヤノも嬉しそうにぱくぱくと食べていた。

「アキさんの料理、すごく美味しかったし、何かお礼をしなきゃと思って。ほら、あの時、手伝うとか言ったくせに、僕はひたすらトマトをゆでたり刻んだりしていただけだったから」
「そんな……すごく嬉しかったですよ。いつも一人で食べてるから、一緒に食べてくれる人がいるって幸せで……」

 心から感謝の言葉を伝えたいのだが、声が汚くて残念だ。いがらっぽい喉を治すために、再び手に持っていたコップから水を飲む。そのたびにハヤノが心配そうな顔で見つめてくるのが、なんだか可笑しい。

「……アキさん、寂しい?」

 不意にハヤノが訊いてくる。アキは考えた後、少し、と小さく笑った。

「たまに、村に帰りたくなります。おじいちゃんに会いたいなって」
「そっか……」
「でも、街での暮らしも楽しいです。王立警備隊の人たちはみんな優しいし、ウキツさんを通じてハヤノさんにも会えたし、優しくしてくれて幸せだなって」
「……うん」

 頷いたハヤノの目がどこか遠いのに気付き、アキはきょとんとする。

「ハヤノさん?」
「あ、う、ううん、僕もアキさんと同じ気持ちだなって……
 いつかこの街を離れなくちゃいけなくなった時、それがすごく寂しいなって」
「えっ?」
「あ、いつか、いつかだよ」

 慌てた様子でハヤノが言い直す。そうですかとアキは不安になりつつ頷いた。ハヤノは以前にも同じように「この街を離れることになったら」というような事を仄めかしたことがある。彼は戦争孤児だというし、帰る場所が無いらしいが、どこかにあてはあるのかもしれない。彼はそこに帰ろうとしているのだろうか?
 ハヤノが街から去ったら嫌だなと純粋に感じて、アキは眉をハの字にした。

「寂しいです、ハヤノさんがいなくなっちゃったら」
「え……そう? はは、ありがとう。嬉しいな」
「また一緒にご飯を食べてくれますか?」

 半ば懇願のつもりで訊くと、ハヤノは目をしばたたかせたあと、ほんのり頬を赤らめた。

「僕なんかが、いいの?」
「ハヤノさんがいいんです」

 その時は、本当にそう感じて何気なく言ったのだが、後から自分がものすごい発言をしていることに気が付き、アキも真っ赤になってぶんぶんと両手を振った。手に持ったコップにほとんど水が入っていないのが幸いだった。

「す、すみません! 変なこと言って」
「う、ううん、嬉しい、嬉しいよ」
「なんなんだお前らは……」

 先ほどまで黙りこくっていたカヤナが、このタイミングで口を開く。ますます羞恥を覚え、アキは耳まで真っ赤になった。ハヤノも、あははは……と力無く笑って、照れ臭そうに頬を掻いている。

「なあ、そろそろ粥を食べるべきではないか? 冷めるぞ」
「あっ、そうだね。うーんと、卵粥なんだけど食べられるかな?」

 器を差し出しながらハヤノが言う。アキはこくこくと頷いた。

「はい、頂きます。ありがとう、ハヤノさん」
「ううん。また風邪を引いた時には呼んでくれていいからね。家事とか身の回りの世話とか、できる範囲でするから」

 両手で温かな器を受け取りながら、アキは嬉しくなって頷いた。ハヤノが来てくれるなら風邪を引くのも悪くないかもしれないとまで思ってしまった。